
さてと。『ニセコイ』 第229話 ヤクソク(最終話) (週刊少年ジャンプ2016年第36・37合併号)の感想です。
終わりましたね。
第1話「ヤクソク」から始まった物語が第229話「ヤクソク」で終わる。4年半あまりの恋物語が決着したことをまずはお喜び申し上げます。
作者の古味直志先生,歴代編集者の皆様方,アシスタントの皆様,『ニセコイ』という作品の製作に携わられた全ての皆様にお疲れ様という気持ちでいっぱいです。
僕がこの作品を読み始めたのは,アニメ『ニセコイ』第1期をたまたま見たのがきっかけでした。アニメから漫画作品の方に入り,その世界観や物語性の虜になってついには感想記事まで書き始めるようになったのは,『ニセコイ』という作品にそれだけ惹きつけるだけの魅力があったということだと思います。
この物語に出会えたことを感謝したいです。
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さて,漫画に限らず「作品」とは作者が生み出すものです。僕は作品を作るということは作者の専権事項であり,物語の中身を決めるのも,それをどのように描写するのも,作者の自由だと思っています。この『ニセコイ』という作品は,恐らく多くの人に支えられて出来上がった古味先生の結晶です。読者には作られたものを素直に受け取ることしかできないと思います。
読者にできることは描かれた作品を読むことです。それについてどんな感想を抱くのかということは付随的なことだったりします。『ニセコイ』は単行本販売ベースにして数十万冊の売り上げを誇るわけですから,その感想はその人数分だけ多様であると思います。弊ブログのコメント欄を読み返してみても,様々な受け止め方がされていることがわかります。
作者は作品を作る。読者はそれを読む。
そんな単純なルールしかない世界の中で,僕は自分の感想をブログという形で書き連ねてきました。それは内に秘めておいても良いものでもあります。それでも感想をブログという形で公開してきたのは,『ニセコイ』という作品を通じて感じたことを他の読者と共有したかったのかもしれないし,製作者に対して読者としてのフィードバックがしたかったのかもしれない。あるいはその両方かもしれません。
そんな作品の感想を書くのもきっとこれが最後――――ここが最後だと思います。いろんなことを書きますが,あくまで「僕の感想」に過ぎないことを最後までお忘れなく,お付き合いいただければと思います。
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『作者の描きたかったもの』(僕の印象から)
これまで僕はこの作品は物語に一貫性があり,物語の端々にきちんと伏線があり,それを丹念に積み上げることによって物語としての構成美が際立っていると感じていました。実際,そのように丁寧に描かれた作品には一種の論理性があり,そこに面白さを感じたり先々の展開を妄想するといった楽しみ方をもたらしてくれたと思います。
結果的に,僕の「読み取り」は最後に大はずれという形に終わったのですが,そのこと自体は残念ですけれど仕方が無いと思っています。僕が予想した最後の構図と,古味先生が恐らく最初に思い描いていた物語の最後の構図は一致していなかった。一言で言えばそういうことだったのでしょうから。
恐らくですが,第1話を描いた段階で,古味先生はこの物語の最後の「絵」を考えられていたはずです。すなわち,「ニセモノ」の恋が「ホンモノ」になる。十年来の恋をも凌駕する「ニセモノ」から始まった「ホンモノ」の恋。そんな結末を最初から描かれていたのだと思います。
物語の途中で描かれたプロセスは,全てその最後の「絵」に当てはめていくためのものです。そのプロセスを美しく描ききることができるのならば,最後にニセモノの恋がホンモノの恋になるという「結末」はとても美しい,祝福された結末になるはずです。
となれば大切なのは,実際に描かれた物語がその「理想」の形になっていたのか,という点ですね。そんなことを念頭に置きながら,最終回第229話における描写を振り返りながら確かめておきたいと思います。
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『実際に描かれたもの』(第229話を中心に)
恋物語としての『ニセコイ』は,一条楽が千棘を選ぶことで決着がつけられました。ここでもう一度,一条楽が小野寺さんではなく桐崎千棘を選んだ理由を振り返っておきましょう。
(第226話「ケツベツ」より)
「あの日千棘のことを好きだと気づいた日―――」
「こうしてこいつと腹の底から笑いたい」
「こいつとならオレが想像もしなかった世界に 一人だけじゃたどり着けないような世界にも 二人なら行けるような気がする だから―――」
(第227話「ニセコイ」より)
「多分楽しいんだよ オレ お前といるの」
「お前と喧嘩すんのが楽しい 悪口言い合ってんのが楽しい」
「怒ったり落ち込んだり泣いたりしても... きっと...」
「...そんくらい 好きになっちまったから」
「だから...きっともうどうしようもねぇんだ...」
直近で描かれた言葉からは,「ニセモノの恋」を通じた桐崎千棘とつながりが,10年来の一途な恋よりも上回ったから...ということが伺えます。
千棘と一緒にすごしてきたニセモノの恋人の時間。
・一緒にいると楽しいと気づいた修学旅行(第154話ウレシイ)。
・一度はそれを「親友」という関係だとみなしたにも関わらず(第162話 ワカッタ),
・千棘に好きな人がいると気付いた時に感じた動揺(第175話ドウヨウ)。
・千棘との仲直りのデートで再び感じ取った「一緒にいると楽しいと思う気持ち」(第198話グウゼン)。
・その気持ちこそ「好き」だという気持ちなんだと気づいた瞬間(第199話 マジコイ)。
こうしてみると一条楽にとって「ニセモノ」だけれど時間と場所を共有し,その中で体験したことが大切なものとなり,それを失うことに耐えられないほどのものとなり,いつも一緒にいたいという気持ちが「好き」という気持ちになっていったことがきちんと描かれています。その意味では第199話までの伏線の積み重ねはとてもよく描かれていたと思います。
しかしどうでしょうか。先週の228話,今週の229話で描かれたことがそうした物語の積み重ねをご破算にしてしまったような印象受けるのはなぜなのでしょう。
時は過ぎ,社会人となった一条楽。その職業とは表は地方公務員,裏は家業である集英組を継ぐというものでした。
公務員の兼業云々はまあ置いておきましょう。兼業は申請すれば認められるものですから,絶対に兼業できないものではありませんし。反社会勢力の構成員は公務員になれないといった基本的なことも,まあ目をつぶりましょう。話の本筋には関係ないからです。
ここにきて突然集英組が「そんなに悪いことをしていたわけではなく,街を守っていた」という設定が付け加えられたのも,まあいいでしょう。
単に他の反社会的勢力が凡矢理市に入ってこないために活動しているだけで,どうやって数百人の人間を養う「稼ぎ方」をするのか考えても仕方がありませんし。どうせこれらは「設定」にすぎないことですから。
むしろ問題なのは,「千棘と二人なら想像もつかない世界にも二人ならいける」という,"小野寺さんを選ばなかった理由"との整合性が取れていないことだと思います。
前回,楽は大学に進学したことが示されましたが,結局それは千棘の「夢」(ファッションデザイナー)とは何も関係の無い「地方公務員になる」という楽の本来の目標のためでした。皆さんご承知でしょうが,地方公務員とは"公共の福祉"のための存在です。どこまでも行く世界といった,枠に囚われない世界観を共有する為の仕事ではありません。
今回,楽が裏の顔として集英組を継がされたのも,楽の「夢」は凡矢理市という彼の「街」を守ることに生きがいを見出したからと捉えてよいと思いますが,それは千棘のファッションデザイナーの夢をどこまでも共有するのとは全く関係がありません。「街を守る」ことがやりたいのなら,和菓子おのでらの娘を嫁にもらうことでもできたのですから(笑)
それが突然「やることができた」という設定を付け加えられた,ビーハイブとともに「街を守る」という役割を共有することだったのだとしても,それすらも組織の跡取りをクロードとしてしまったために結びつけが困難となってしまっています。アーデルトも千棘もこうなると「元組織のトップとその家族」にすぎず,その役割を共有できないからです。
こうしてみると,楽が千棘を選んだ理由として付け加えられた,「千棘と二人なら想像もつかない世界にも二人ならいける」というセリフがこの展開の説得力を大きく棄損していることが分かります。言うならば「蛇足」というやつです。それが足を引っ張って,結果的に楽が千棘を選んだ理由の説得力を下げてしまっている。そんな印象を僕は受けました。
これならばむしろ,「ニセコイ」の方が小野寺さんとの本物だった恋を上回った,というだけに留めたほうが遥かに説得力があったように思います。
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そして楽が千棘と一度離れ離れになることになった千棘の「夢」。それはファッションデザイナーになるということだったのですが,この職業選択がまた楽が千棘を選んだ理由の説得力を下げることになってしまいました。
千棘が楽と一旦離れた理由はファッションデザイナーになるために,その人に従事して教えを請うためでした。
ファッションデザイナーの世界がどんなものか僕は詳しいわけではありませんが,その修行が数年かかるというのも分かりますし,その人が世界的に活躍するような人だったら世界中をついて回るというのも分からなくもありません。
むしろ気になったのは楽が選んだ「公務員+集英組の跡継ぎ」という職業と,ファッションデザイナーの仕事がなんら交わりが無いという点です。
繰り返しになりますが,「千棘と二人なら想像もつかない世界にも二人ならいける」という楽の選択理由からは,二人がともに何かに取り組むことによって想像もできないようなことが実現できるように聞こえます。少なくとも一条楽はこのときそんな風に考えていたに違いない。
しかし実際に二人の選んだ「やりたいこと」が全く交わっていないために,楽が"小野寺さんを選ばなかった理由"の根拠としての説得力を著しく下げることになってしまっています。
これがもし「どこにでも行ける」という場所としての「行ける」という意味だったとしても,楽が選んだ地方公務員という仕事,裏家業を含めて「街を守る」という"地域性"に根ざした「夢」をもった楽とは相容れないように見えます。10年来の恋を振り切って千棘を選ぶ理由ですから,それが「どこかに旅行する」とかいった矮小なことではないはずです。
だからこそ,楽の恋の選択の理由と実際の二人の職業観が合致しないことの綻びが目立ってしまう。繰り返しになりますが,こんなことなら単に「ニセコイ」つながりの方が大切でそれが本当の恋になったという理由「だけ」にしておけばよかったな,と思います。
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次です。
今回,楽と千棘の結婚式を行うことが示唆されました。招待状がかつての仲間たちや恩師の下に届き,祝福ムードでお話は進みます。これも色々不思議なことが起きていきます。
招待状が届いているのだから,当然式の日取りや披露宴の段取りも全て決まった上で話が進んでいるのかと思いきや,驚いたことに楽はその後に千棘にプロポーズしているのです。それも相当変ですけれど,問題はそのあとの天駒高原でのやり取りですね。
...やりたいことは分かります。
千棘と楽をもう一度再会させる為に天駒高原にいかせたかったのでしょう。そこで千棘と楽が「永遠の愛」の約束をすることで,実らなかったかつての「永遠の愛」を土に返し,新しい「永遠の愛」として蘇らせる。まさに絵本に描かれたとおりお姫様は死んだわけですが,生き返ったわけです。(肝心のお姫様が入れ替わっちゃっているけれど)
この「お姫様が入れ替わっちゃっている」段階で,絵本の物語どおりの筋書きにはなっていないわけです。『ニセコイ』第1話で描かれた,「錠と鍵の約束」は小野寺さんのものでした。今回,この描写を無理やりにでも入れてきたのは
"このニセモノの恋がオレを10年前の約束へと導いてゆく事になるのだが オレはまだ知る由も無い"
という第1話の「引き」のモノローグを回収するためなのでしょうが,少し考えればつじつまが合わないことが分かります。
今回,楽と千棘が行った新しい錠と鍵による「ザクシャインラブ」の約束ですが,これは千棘と楽が「今」新たに始めた新しい約束です。「10年前の約束」は全く関係ない。千棘を約束の女の子にしなかった段階で,10年前から続いていた「実らなかった本物の恋」よりもニセモノの恋から始まった恋という文脈では「ニセモノの恋が10年前の約束へ導くことはできない」わけです。
まあこれは,第1話に描いてしまったから,どうにかして格好をつけなければならなかったということなのでしょう。とはいえ,ちゃんと読んでいる人には矛盾は明らかなわけですが。
そんなこんなで振り返ってみると,第226話ケツベツ以降描かれた物語は「いろんな無理」や「矛盾」が多く噴出しているように見えます。そんな矛盾を無理にでも縫い合わせようと苦労した,そんな印象をこの第229話ヤクソクから僕は受けました。
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こうして実際に「描かれたもの」を振り返ってみると,たぶん作者が「描きたかったもの」と乖離があることが分かります。最後に思い描いていた「絵」を完成させるためのプロセス,その一番大切な部分がきちんと描き切れていない。そんな風に感じました。
226話からの流れは,本来はもっと丁寧に10話ぐらいかけて描くべきことだったように思います。
千棘の「やりたいこと」。楽の「やりたいこと」。それらをきちんと楽が"小野寺さんを選ばなかった理由"として筋が通るようなものとして丁寧に描ければ大幅に説得力が増したに違いありません。二人が凡矢理を離れ,遠く広い世界で活躍する姿が描かれれば,二人がいつも一緒で楽しく何かを成し遂げる世界にいることを読者はかみ締めることができたと思います。
そして今回描かれたそれぞれの将来と恋模様。
これも最終話に無理やり詰め込んだので,説得力がいまひとつのものが多々あります。その中で,集とるりちゃんと春ちゃんについては以前より示されていた「夢」だったので違和感が無いのですが,そのほかの人物についてはいろいろ気になるところがありました。
ポーラが大学院生にまでなったというのは,例の進路調査の中で「進学」を志していたことからも伏線が無いとも言い切れません。とはいえ,このあたり時系列が不思議なことになっていて,新米公務員の楽さんが就職したてなら一学年下のポーラはどう頑張っても「大学4年生」のはずなんですが,それは...。
まあ楽さんが就職浪人したのか,楽自身も大学院に行ったのかもしれませんが(彼の人生目標である公務員になるためなら大学院に行くはずも無いですけれど)
高卒の春ちゃんが和菓子屋の美人女将なのはいいと思いますが,楽が大学新卒で公務員新採用なら風ちゃんは当然大学4年生のはずですしね。やっぱり楽さんが一発では公務員に合格できなかったということなのでしょうね,多分。
そしてそれぞれの恋愛観も色々思うところがありますね。
万里花は楽のことを諦めてドンドンとお見合い相手を探すという...。まあこれは,「千葉県の...」というセリフから,千葉県のYさんに対するファンサービスというか,製作者からYさんへの感謝の念なのでしょうね。個人的には10数年前に約束した,「再会した時に楽と小野寺さんが結婚していなかったら自分と結婚する」という約束をもう一度突きつけてほしかった気もしますが(笑)
一方で,春ちゃんと風ちゃんにはまだ「春」が来ない...。ポーラも研究室にはつまんないやつしかいないとやらで,「春」が遠そうです。まあ研究者の魅力はそこで成し遂げられた研究に拠るものが大きいはずですから,修士1年のひよっこポーラはまだ「分かってない」だけなんでしょうが。
まあ,このあたりは余禄としては面白いですが,やはりとってつけた感が印象に残りました。
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『小野寺小咲とはなんだったのか』
さて。
今回のお話を読んで,僕が感じ取ったのは作者からの一つのメッセージです。皆さんが感じ取られたかどうかは分かりませんが,僕には伝わったものがあります。
僕が今回のお話を通して感じ取ったのは,「小野寺小咲」はあくまで「ニセモノの恋から始まった恋」の対比としての「実らなかった本物の恋」の象徴であったということです。何が描かれて,何が描かれなかったのか。振り返ってみましょう。
(描かれたもの)
・成長した小野寺さんが選んだ職業は「パティシエ」
・千棘と楽の結婚式のケーキを作っている
・その表情は全体がはっきりと描かれることはなく,そこから未来を感じることは無い
・言葉だけで描かれた現在の「幸せ」
・小野寺さんの最後は,千棘と楽が「ザクシャインラブ」の約束をした直後に描かれた回想
・「錠と鍵」は天駒高原の最後に,楽と小野寺さんの相合傘が描かれた二人が最初に出会い,「ザクシャインラブ(永遠の愛)」を行った場所に「埋めた」
ということです。僕が小野寺ファンということを除外しても,色々と凄いことが描かれていることが分かるかと思います。
まず,小野寺さんの選んだ職業が「パティシエ」。
これは恐らく「マジカルパティシエ小咲ちゃん」に合わせたのでしょうけれども,これも彼女の夢としては変ですよね。楽と春ちゃんと三人で参加した和菓子づくりがきっかけでパティシエを目指す...というのは前後関係がよくわかりません。
きっかけがそれならばむしろ和菓子づくりの勉強をするほうが自然ですけれど,それは春ちゃんにあてがってしまったのでできなかったんですね,きっと。一応以前洋菓子と和菓子のコラボという話(ケーキヤ)がありましたから,全く関係ないとは言いませんけれど。
これが本当に小野寺さんの目指したかったものなのか,といえばやはり「とってつけた感」があります。第123話「ムイテル」で示唆されていたのはあくまで「楽のお嫁さん」でしたから。なんとなく結末に合わせて与えられた「設定」という印象はぬぐえません。
そしてそんな小野寺さんにこともあろうか,楽と千棘のウェディングケーキを作らせるという...。うーん...。
これはねえ。たとえ小野寺さんが言い出したことにするにせよ,普通に考えて「無い」よね。
10年前に行った「ヤクソク」は守れず,10年後再会して両想いであることが明らかになったにも関わらず「実らなかった本物の恋」の相手ですよ。小野寺さんの半生をかけてきた実らなかった恋の相手の結婚式のケーキを作るって...。なんというか痛々しいというのを通り越したものがある。
本人がやるといっても,人道的に頼まないよね,普通は。とか思わなくも無いです。
「錠と鍵」を3人で土の中に埋めたというのもねえ。いくら一条楽の好きにしていいと言っても,それを相合傘のある,楽と小野寺さんが初めて出会った場所に埋めるというのは。『ニセコイ』の物語の屋台骨となってきた「錠と鍵の約束」を自らの手で埋めると言うのは,想像するだにシュールな光景です。
そして驚いたのは,その場所で千棘と楽が新しい錠と鍵を用意して,「ザクシャインラブ」の約束をしなおしたことですね。いや,やりたいことは分かるのです。先にも述べたように,「永遠の愛の約束」は一度死に,そして蘇った。それを描きたいのはよく分かります。でもねえ...実際の絵としてそれを見てしまったら,
(自分が守らなかった約束の相手の)小野寺さんの墓の前で楽が千棘にプロポーズした
みたいなもんですからねえ。あくまで比喩ですけれど,やっていることはそういう構図ですよね。何が言いたいのかと言うと,漫画としてやりたいことは分かるが,実際にやってしまったら一条楽と桐崎千棘と言う人物の「人格」が疑われかねないような行為に見えてしまうのですけれど...。
ただきっとそういった一種の「シュールさ」はわかった上でのこの描写だったのだと思うのですよ。ここに込められた意図は,要するに小野寺さんとは「実らなかった本物の恋」なんだと。10年前だけではなく10年後の高校生につらなる永遠の恋になるはずだったものだったとしても,それは「昔の恋」なんだよと。そういう強調が感じられるんですよね。
振り返ってみて,小野寺さんと楽の「もう一つのつながり」らしきものが描かれなかったのは,それは「終わった恋」だから,なんでしょうねえ。昔の恋。青春の一幕。思い出の人。そういった「過去」の象徴こそが小野寺小咲だったということを僕を含めた読者にはっきり分からせるためにそこまで強烈な扱いをしたように感じます。
そんな明確な,断固たる製作者としての意思。それが第229話には込められていたように思います。
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『おわりに』
まだまだ書きたらないことが多々ありますが,もう少しでこの感想も終わります。いま少しお付き合いください。
振り返ってみると,第226話『ケツベツ」までの流れはとても重厚で,10年来の恋物語が一つの結末を迎えるクライマックス感に溢れていたと思います。それが第226話で千棘を選んだ理由を示したところから,その裏づけをしていく第229話までの最後のプロセスを描いたとたん,いきなり「軽く」なってしまったような気がするのです。
前後の伏線との矛盾。言葉で語られる「実はこうだった」という一つ間違えると「いいわけ」のようにすら見えてしまう「設定」。
この感想を読み返してみると何度も「設定」という言葉がでてきますが,後付の設定がドンドン与えられたことが結果として物語を非常に軽薄にしてしまった感があります。
そして結果として一条楽がほとんど「約束」を守れなかったこと。そんな彼が最後に千棘と結んだ「約束」は本当に果たされるのか,心配になってしまうほどです。一条楽が「誠実である」ということすらも,単なる「設定」に過ぎなかったように感じてしまいます。
...本来この部分こそ,もっとも力を入れて丁寧に説明しなければいけなかった部分ではないかと感じます。楽が「ニセモノの恋から始まった本物の恋」を理由に選ぶのならばこそ,丁寧に描くべき部分が実質3話ちょっとで淡々と説明されている。それでは物語全体を振り返った時に,全体として未完成の作品であるように見えてしまうのです。
丁寧に伏線を積み重ねて描かれてきた物語だからこそ。そんな物語の構成美に魅了された者だからこそ感じる「無念」でしょうか。綺麗に描ききってほしかったなという感想は抱きます。
むろん,製作者としては精一杯やりきられたのだと思います。もしかしたら読者には判らない事情があるのかもしれませんし,今回僕が感じ取った「もう一つのメッセージ」がそうさせたのかもしれません。願わくば,古味先生が本当に「超幸せ」と思われていることを祈るばかりです。
もはや叶いませんが,最後に楽と千棘と小野寺さんが本当に幸せそうに一緒に歩く姿が見たかったです。
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さて。さてさて。
最後に『現実逃避』読者の皆様方。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。おかげさまで最終話まで感想を書くことができました。読者の皆さんの反応があってこそ続いたブログだと思います。多分一人ではこの感想を最後まで続けることはできなかったでしょう。大勢の応援と幾ばくかの批判,いずれも今となってはよい思い出です。ありがとうございました。
さて感想記事ですが,今回僕が受け止めた「メッセージ」を尊重して,過去記事についてはネットの片隅に残すこともなかろうと思いましたので非表示にさせていただきました。(コメントを含めまして,全て残っております。ご安心ください)
もし僕の受け止め方が「誤解」であるならばもう一度表示させるかもしれませんが。そのあたりはご了承ください。特段,予想が大外れだったから隠すということではありません(笑)。あくまで僕の製作者に対する配慮です。
『ニセコイ』本編の感想は以上となります。
最後に後1回だけ,8月中旬にある企画のレポートをアップして終わりになると思います。そこでもう少しざっくばらんな,裏話というか率直なお話をお伝えできればと思います。
それでは皆様。
『現実逃避』を最後までご覧いただき,ありがとうございました。
*コメントを非開示にしてほしい方は,タイトルを「非開示希望」としてください。