Quantcast
Channel: 旧・現実逃避
Viewing all articles
Browse latest Browse all 164

『ぼくたちは勉強ができない』 問38. 喧々たる夜に果たして[x]は勉強はできない 感想

$
0
0

さてと。『週刊少年ジャンプ2017年第49号』 『ぼくたちは勉強ができない』問38. 喧々たる夜に果たして[x]は勉強はできない の感想です。


『ぼくたちは勉強ができない』も,もう38話目ですか。なんとまあ,周年でもないのに巻頭カラーとは,予想以上に好評の様子ですね。



祝・巻頭カラー

なるほど。
ここしばらくTwitterフォロー拡大方針をとってきたんですが,Twitterのタイムラインを追えば一目瞭然のように,『ぼく勉』を熱狂的に支持している方々も大勢いる様子は伺えます。この作品が多くの方に愛され,登場人物の一挙一動にあれこれ思いをはせている様子が伝わってきます。

思うに,キムチ以前の『ニセコイ』もこんな感じで愛されていたんじゃないかと思ったり。というわけで(?)感想前にちょっと「前説」。(興味ない人は38話感想まで一気に飛ばしてください)



『前説:なぜこれまでほとんど「ぼく勉」の感想を書いてこなかったのか』


ラブコメハンターの端くれとして,当然のことながら『ぼく勉』は読んでいるわけですけれど,にも拘らず『現時逃避』として感想をしたためる事をTwitterを含めてほとんどしてきませんでした。なぜか。


『ニセコイ』感想ブログとして,111話分にも及ぶ感想を毎週1万字近く書いてきた僕がですよ。

それだけのぐ...快挙(笑)をやってきた僕が,『マジパテ』のスピンオフを作品化してくれた筒井先生の作品に関心が無いはずはありません。好物かどうかといったら無論大好物であります。それこそ全230話以上を目指して頑張ってもらいたいという応援の意志はあります。



応援はしているんだけれど...


だけれどまあ,なんというのでしょうか,あまり成幸がどのヒロインと結びつくかとか,そういう「考察」をしようとは思わないんですよねえ。

なるほど,『ぼく勉』は『ニセコイ』亡き後の正統派ラブコメとして認識できるとは思います。でも『ぼく勉』と『ニセコイ』は系統が違うラブコメだと思っています。それは多分,他ならぬ筒井先生自身が一番よく分かっていて,「同じことをやっても仕方が無い」という認識があろうかと思います。



ラブコメハンターを自認する僕が,作品の登場人物の一挙一動や,モノローグや,描写を細かく読み解いて「考察」をしない理由はそこにある。『ぼく勉』にはぼく勉の良さがあり,『ニセコイ』のそれとは違う。


一番の違いは,同じラブコメといっても「ラブ」の部分の位置づけが大きく違うところなんだと思います。


『ニセコイ』は作品紹介に「ピュアラブコメディー」とあるように,ラブストーリー部分にある程度重きをおいていました。それは普段はほとんど意識されていない部分ですが,作品の縦糸と横糸の存在です。すなわち,

縦糸としての「ニセモノの恋」という関係性(楽・千棘)と横糸としての「約束の女の子」(楽・小野寺さん)という関係性です。

ある程度作品が軌道に乗ってからは,これらの「ラブストーリーの根幹」に関わる部分は意図的に読者に意識させないようにし,当番ヒロイン制度に基づき作品を展開していきました。ですが,肝心要の「一条楽とヒロインの恋」に関しては,はじめに恋の縦糸・横糸がしっかり示されていて,それだからこそ時々描かれる「伏線」が何なのか考察する余地があったのです。



一方の,『ぼく勉』におけるヒロインと主人公の関係性は「勉強」にあります。

ラブコメを始めるにあたり,一番重要なのは主人公とヒロインにどんな関係性を持たせるのか,ということです。『ぼく勉』はそれに勉強を選んだわけです。勉強を媒体として主人公はヒロインとお近づきになる。勉強を通じて成幸とヒロインズの間にTo Loveるが起きる。そういう構造です。

『ぼく勉』のラブコメの「ラブ」の部分の根幹がそもそも「勉強一本」であるため,そこからは恋愛的結末を読もうにも読みようが無い「構造」になっているわけです。


結果として,唯我成幸が最終的にどのヒロインと結ばれるのか,というラブコメの最大の関心部分については「個々のフラグの積み重ね」という地味ではありますが確実な手法がとられるわけです。

現在,緒方さんが成幸と唇接触というフラグをたて,うるかが好きな人は成幸であると誤解(実際には真実)というフラグを通じて一歩リードしています。けれども,こうしたフラグの積み重ねによる恋のレース方法をとる限り,最終的に作者はいかようにも結末を変えることができる。



『ぼく勉』が始まった当初から感じていたことですが,どうにも筒井先生は「最終的結論」を定めていないように思えます。

現在,ヒロイン戦線はかなり拡大傾向にありますが,そうした作劇手法から見ても,いろんなヒロインとのフラグを立てつつ,「最終的に最も人気のあるヒロインと結びつける」というニュートラルな方針を採っているように思います。


それは多分,筒井先生が先達者の歩んだ道をよく見て,研究して考えて作品を作られているからだと思います。

ジャンプ最長ラブコメの称号を冠する『ニセコイ』という作品は,内容の賛否はともあれラブコメとして一時代を築き,多くのファンや読者の話題となった作品でした。そこには肯定的な評価もあれ,否定的な評価もありますが,そのなかで否定的な部分は取り入れず,肯定的な部分は取り入れる。そういう作品制作方法を後進者である筒井先生はできるわけです。


肯定的な部分で言えば,他のラブコメ作品にも共通することですが,「ヒロイン当番制度」というお話やエピソード,フラグの多角化が図りやすい方針を採っていることでしょう。魅力的な複数のヒロインが主人公とフラグを立てていくエピソードに読者は熱狂する。システマチックといえばそうですが,ラブコメとしては分かりやすい方法です。

逆に先達の反省点を踏まえているなと思える点は,「主人公に好きな人を作らない(恋愛感情を持たせない)」「(推測ですが)恋の結論を想定していない」という部分でしょうか。

主人公に好きな人を設定してしまえば,それ以外の人を選択したときに反発の原因になります。また,それ以外のヒロインとの個々のフラグ・エピソードが組み立てにくくなります。

『ゆらぎ荘』もそうですけれど,主人公自身がニュートラルというのは実に安全な方法で,最終的に誰を選ぶこともできるし,その結果として反発も受けにくい。描かれた描写に基づいて主人公の選択が行われるので,物語の冗長性を活かした展開ができる。まあいいことづくめです。



唯我成幸


ここまで38話までやってきて,唯我成幸に対する否定的見解というのがほとんど見られないのはそういう作品背景・作劇方法に拠っているからだと思われます。

それが作品の肯定感を冗長している。可愛いヒロインを並べるだけではラブコメは成功しないという,あわせて主人公のニュートラル感(とそれに付随する共感性)こそが重要であるということなのでしょう。

そういう意味では『ニセコイ』は実に先駆的・前衛的な作品で,尖がった作品であり,『ぼく勉』は先駆者のバグを取っ払った一種の洗練性がある作品であるといえるでしょう。例えるならば『ニセコイ』は爆発的に売れたWindows95の最終系である"Windows Millenium" であり,『ぼく勉』はWindowsNT系の発展系である"Windows7(または10)"といったところでしょうか(ちょ)


そんなわけで(おい)。

要するに,『ぼく勉』は主人公がニュートラルで恋の意識を持っていないこと,恋の最終結末を予想させるような軸線が存在しないわけです。

なので,作品としてはとても面白いのですけれど,だからといって恋のレースについてあれこれ考察しようとは思えない...むしろ,純粋に可愛い女の子たちの恋のドタバタを楽しんだほうがいい,というスタンスに行き着いたわけです。

にもかかわらず,今回,感想記事を書いてみたのはちょっと「お?」と思う部分があったからですね。なので,その件について今回はちょいと感想を述べさせていただきます。

以上,前説おわり。





で,第38話の感想です。




『ぼく勉』における「月」は何を意味するのか。

まあ考察大好きayumieさんですから,本エピソードの個々の出来事はあまり拾いません。気になった点は「月」ですよ。




緒方理珠と成幸がうどんの配達をした後に描かれた「月」(*36話にもあり)




怪我をした怠慢先生をあしゅみー先輩の救護室に連れて行ったときに描かれた「月」(*34話にもあり)


「きぐー」(=「たまたま」?)

迷子の女の子を母親に送り届けた時に,もう一人の女の子(「きぐー」ね)について言及された時に描かれた「月」




そして終電に間に合わなかった時に,成幸が誰かいることに気付いた時の「月」


これらの「月」は全て実在しない,真円から真円をくりぬいたようなマンガ描写的な月で描かれている。つまり実際にはあり得ない「偽物の月」である。


偽の月...とくれば,やはり『ニセコイ』ですよね!(←話が一周して戻った)

『ニセコイ』において月の形は「約束の女の子」を暗喩するものとして描かれてきました。詳しくは,以下の考察を読んでいただきたいのですが,まあ終わっている作品ですし,興味のない方もいらっしゃるでしょう。

関連記事:
『ニセコイ』における月の描写に基づく『約束の女の子』に関する考察(スマホ版)(PC版)


なので簡単にまとめると,

『ニセコイ』において月は二種類描かれる。
実在する形の月は「約束の女の子」(本物の象徴)が出てくるシーンで描かれる。
実在しない形の月(今回の『ぼく勉』で描かれた月も同じ)は,それ以外のヒロイン(ニセモノの象徴)が出てくるシーンで描かれる。

つまり,『ニセコイ』においては実在する本物の月が描かれる女の子が「約束の女の子」だよと分かる人にはわかるように作者からヒント(メタファー)が散りばめられていたわけです。


筒井先生が,その暗喩に気付かないわけがありません。

これまでそうした表現は『ぼく勉』では行われてこなかったわけですが,ここにきて意味深に繰り返し女の子とのエピソードの後に「実在しないニセモノの月」が描かれる。これはちょっとしたメタファーじゃないですか。伏線ぽいじゃないですか。



先達である『ニセコイ』の例を引けば,「実在しない月」=「ニセモノ」ということになります。言い換えれば,"現時点で"この月と共に描かれたヒロインは「成幸の本命にはならない」というメタファーなの"かも"しれない。

"現時点では"と断りを与えたのは,前説でも記したように,作者はフラグ次第でいくらでも結末を変えられるからです。


『ニセコイ』の場合は「約束の女の子」は誰かと言う謎賭けに用いた仕掛けであり,かつ『ニセコイ』は主人公と結びつく「決め手」は偽ものの方が本物より大切になったという「恋の選択基準の大転換」にあったわけです。

後者については匂わされてはいたものの,楽の最後の選択の瞬間まで表れなかったので,前者の「約束の女の子は誰なのか」ということが即ち恋の結末に影響すると読者意識が誘導された。故にこの暗喩には意味があったわけです。



一方,『ぼく勉』にはそうした「恋の軸糸」のようなものはこれまでありません。成幸とヒロインズの関係性は唯一「勉強」で結びついているからです。

今回,突然描かれたこの「月」には何の意味も無いのかもしれない。あるいは意味があるのかもしれない。これまで「恋の軸糸」のようなものが無かったことに対して,唯我成幸のその人物に関する恋愛感情のメタファーとして「月」が用いられているのであれば,それは読者に対する"現時点"での成幸の恋愛メーターを表しているの「かも」しれない。とか思ったり。


即ち,今回「偽の月」と共に描かれた人物は,現時点では唯我成幸の恋愛対象としてまだ未成熟である,あるいは意識していないという「暗喩」なのかもしれませんね。



暗喩?偶然?

仮定に仮定を重ねる形で申し訳ありませんが,これが正しければ緒方さん,怠慢先生,「きぐー」が口癖の女性,および最後に電車に乗り遅れた女性は唯我成幸の"現時点での"恋愛対象ではないということが言えるの「かも」しれない。




『電車に乗り遅れたもう一人の人物は誰なのか』
(*未確認情報に基づくのでのため参考まで)


ということはだよ。上記の「仮説」がとりあえず正しいものとして,最後に残った人物は,それが誰であれ唯我成幸の恋愛対象「ではない」人物である可能性がいまのところ高い。

描かれた描写から考えれば,成幸同様に迷子の女の子をお母さんに送り届けた人物,口癖が「きぐー」らしい人物ですから,即ちそれは「関城紗和子」さんという可能性がある。(*厳密には「たまたま」でした。違うかもしれませんね。)


関城さん(第12話より)


もう一点,最終ページのシルエットから判断するに,髪の毛の黒い人物の可能性はある...で,あれば今回のカラー絵から判断して古橋さんかあしゅみー先輩の可能性はある。


古橋さん(もちろんうるかも)


あるいは後ろ髪が丸いシルエットから,緒方さんかあしゅみー先輩の可能性もある。



あしゅみー先輩


最も,このシルエットは「誰であるか特定できないようにするための黒シルエット」である可能性が高いので,髪型とか髪の色は全く関係ないのかもしれない。むしろ,そうであるその可能性の方が高いと思われます。その意味では上記の予測は意味をなさないのかもしれない。


少なくとも,緒方さんは父と一緒に行動しているはずですし,それはあしゅみー先輩もそうです。したがって,現状考えられる候補としては,関城さんが第一候補で,次点が古橋さん,うるかといったところでしょうか。

常識的に考えて,今週活躍が無かった(少なかった)人物と仮定すれば,やはり関城さんでしょうけれどね。あと大穴で妹の水希ちゃんか。どっちも「唯我成幸の恋愛対象ではない」という意味では該当しますし。


大穴・水希ちゃん(37話より)



で,ここで関城さんなり,水希ちゃんが該当人物だとして,それが唯我成幸と一晩を共にする意味は何なのかですよ。

妹はぶっちゃけもとより恋愛対象になりようがないし,共にすごすことが「当たり前」な存在ですからそこに新たなドラマは生まれようがないですよね。そんなことから判断すると,やはり関城さんだとは思いますが二人が一緒に一晩過ごす意味ですよね。


すでにハーレム気味に色んな女性に好意を寄せられている唯我ハーレムに新たに関城さんを加える意図があるのかといえば,あまりそれは意味が無いような気がします。完全に飽和状態ですし,これまでの関城さんの緒方ラブの描写とも矛盾しますしね。

無論ここで敢えて「応援キャラがいつのまにか自分も相手を好きになってしまう」というニセコイの春ちゃん的なエピソードが入る可能性もありますが,むしろ今回の月の暗喩で示されたように「恋愛対象とならない人物」との会話自体に意味があるのではないかと推測したい。


つまり,ここで関城紗和子という人物と一夜を共に過ごすのであれば,それは成幸や関城さんが相手に対して異性を感じるとかそういうエピソードではなく,ここまでニュートラルに徹してきた「唯我成幸の現在の恋愛感情」について見つめ直す機会になるのではなかろうか。


緒方さんとの唇接触事件において,成幸は緒方さんをどう見るようになったのか。自分のことを好きだと誤解した(ただし実際に真実はそう)エピソードを踏まえた上で,武元うるかさんをどう見るようになったのか。あるいは他のヒロインに対しては...といった「現時点での唯我さんの気持ち」を掘り下げるエピソードになるんじゃないかと思ったり。


というのは,成幸が「誰も好きではない」という状態は物語構造的には読者共感もよく,ヒロインズレースを堪能できるんですけれど,肝心の「恋の行方」に関して全くお話が進まなくなってしまうんですよね。

もちろん"現時点の"感情なんていくらでも変わりようがあるわけですし,今後別のフラグを立てていくことによっていまは引いているヒロインがトップ集団に加わることもある。だけれどこのままだとただの成幸ハーレムを堪能するマンガとなってしまうので,ここらで成幸さんの「恋の通知簿(一学期)」をつける時期が来たんじゃないかと思ったり。



一夜の出会いの意味は...?

そんな現時点での恋のレースの状況を整理するために,この一夜の出会いはあるのではないか。とか思った次第でした。まる。






ぼくたちは勉強ができない 第3巻はこちら。 KINDLE版はこちら





*画像は『週刊少年ジャンプ2017年第49号』「ぼくたちは勉強ができない」問38. 喧々たる夜に果たして[x]は勉強はできない より引用しました。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 164

Trending Articles