普段『現実逃避』をごらんの皆さんはこの映画を多分見ていないでしょうし,今ごらんいただいている方の大半は一見さんだと思います。
なので普段は書かないのですがお断りしておくと,『現実逃避』では基本的に感想の対象を鑑賞・読了されていることを前提に感想を書きます。したがいまして,当然のことながら作品の内容について言及があります。未視聴の方はそのつもりでお読みになるか,作品をご覧になってからお読みになることをお勧めします。
なお1時間ぐらいでささっと書いた非常に荒い妄想ですので,細かいツッコミはほどほどにご容赦ください。
(以降,念のため少し空白をあけます)
さてと。それでは感想です。

第五章 煉獄編
これまで2202の感想を書こうかなと思ったことはあるのですが,ここまで見送ってきました。なんとなく感想を書くタイミングを逸したということと,僕ぐらいの緩い感想者が書く内容はファンの皆さんなら普通に考えるでしょうから。
しかしまあ,今回は少し作品の根幹となるようなお話であったと思うので,ちょっと感想を書いておこうかなと思ったり。
ご存知のとおり,2202は元題材となる作品として「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」と「宇宙戦艦ヤマト2」という存在があり,それを再解釈・再構成した物語となっています。前作の2199もまた,もともと存在する作品をベースに再解釈・再構成をして今風にアレンジしたものであります。
このあたり賛同・異論さまざまなご意見あろうかと思いますが,いわゆる「旧作」とよばれるオリジナルコンテンツをベースにアレンジされてきたというのは間違いないと思います。「旧作」は当時熱狂的なファンが存在したように,多くの人に受け入れられ愛された作品ではありますが,当時のアニメにありがちな「普通に考えると?なツッコミ所」も多々あったとは思います。
2199においてはそうしたツッコミ所をそれなりに「理屈づけて」再構成し,物語として一つの文脈を整えた...という点において成功した作品ではないかと思っています。すなわち,「宇宙戦艦ヤマト」の面白かった要素はそれなりに活かし,設定の荒いところ,矛盾しているところに理屈づけてそれなりの整合性を持たせる。よくできた物語の再解釈・再構成だったと思っています。
そして2202においても,物語の要素をある程度再解釈し,一つのテーマを与えて再構成するという手法がとられていたと思います。旧作で「?」と思われていた部分にそれなりに理屈をつけてなんとかしようとした手法も残っていると思います。
たとえばガミラス大戦後わずか数年でどうやって軍事力を回復したのか。なぜ突然ガトランティスに地球が狙われたのか。なぜデスラーは「ああ」だったのか。国が滅んだわけでもない元総統デスラーは何故ヤマトと戦うことになるのか。ある程度の「整合性」をつけようとする意思は感じます。
とはいえ今のところ物語は旧作からはかなり逸脱している印象があります。少なくとも2199を観ていた時にはあったワクワク感があまりないことも要因にあるのでしょう。宇宙戦艦ヤマトは,その是非はともかく星間戦争ものとしてのある種の戦略・戦術を楽しむ側面があると思いますが,そういった部分はかなりつぎはぎ感があって爽快感・ワクワク感に欠ける側面があります。
第5章で言えば,地球連邦艦隊が白色彗星を迎え撃つ土星沖会戦がひとつの見所だったと思います。旧作においてもあそこはかなりファンを熱くさせた場面だったのではないかと思います。
当時,白色彗星帝国のガス体を何とか吹き飛ばしたはいいものの,その後なすすべも無く都市帝国に壊滅させられたシーンを覚えているファンからすれば,「なんで効きもしない主砲をバリアに打ちっぱなしだったのかな」とか,「あそこで波動砲を撃っていれば...」みたいな思いはあったでしょう。
それがそうならなかったのは,多分に本作が「宇宙戦艦ヤマト」の物語であり,「最後はヤマトクルーが何とかする」という展開にしなければならないという製作側の「想い(都合?)」があったでしょう。


「あの時」無かった第2撃
第5章においてはそれなりの展開を波動砲艦隊に役割として与えようとした意思は見られたと思います。だだまあ,それが逆に波動砲大バーゲンセールみたいな「単純な戦闘」となり,2199の冥王星戦やバラン戦で見られたような「ワクワク感」に欠ける戦闘になってしまったのは皮肉だと思いますが。
しかしそうした「バトルもの」として見た時の2202の戦闘シーンがいまひとつに感じるのは,多分にこの物語は「戦争」で解決するものではないという思いが製作者側にあるからのように感じます。だからこそ戦闘シーンはあまり脚本に力が入っていない。そんな風に感じます。
それはきっと,製作者が本作のテーマとして「愛」を据え,『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』という作品を通じて描こうとしているからそう感じるのでしょう。
たとえば,第5章の最後のシーンである加藤の行動(修正しました)にそれが現れていると思います。
地球を守るべき波動砲艦隊が彗星帝国に破れ,現状として彼らと対抗しうるのは「トランジット波動砲」なる通常の波動砲の乗数倍の威力を持つ波動砲に賭けるしかない状況に陥ります。
その時,加藤は桂木透子(=サーベラーのコピーの一人)に自分の家族を救うチャンスを与えられます。ヤマトの波動エンジンを停止させる見返りに遊星爆弾症候群の特効薬の製造法を教えることを約束される。それがあれば遊星爆弾症候群に苦しむ彼の息子・翼や同じ病の病人を救うことができるわけです。
映画を見終わったとき,加藤がその誘惑を受け入れたことに皆さんはどう感じたでしょうか。僕は最初非常に「ぽかーん」とした気分になりました。
加藤は軍人です。それも一兵卒ではなく,航空隊隊長という士官側の人間です。それが自分の家族の命と地球の存亡をかけた状況下において,「家族愛」を選択するということがあるのだろうかと。普通に考えて,それは「無い」わけです。

加藤の乱
仮に約束が守られても,彗星帝国の本体に飲み込まれたヤマトからどうやって特効薬の製造法を地球に伝えるのか。地球がガトランティスに蹂躙され,滅ぼされた後に,翼や真がどんなきもちで生き延びるのか。そういう「細かいこと」を考えていけば矛盾だらけです。意味不明です。
しかし少し時間がたってからあのシーンの意味を再考すると,2202のテーマ的にはあそこは「愛」を選択するで正しいという持って行き方をしたいんだろうなと推察しました。
他ならぬ加藤自身が述べています。
アケーリアス文明の遺産を引き継ぎ,単なる人造生命体であり人類を滅ぼすことだけを目的とするガトランティスには地球をあっという間に蹂躙するだけの軍事力があります。それは地球やガミラスの総戦力を大きく上回っているわけです。なんでこんな「取引」を持ちかける必要があるのかと。
それに対して桂木透子(=サーベラー)は「ゲーム」と述べています。彼女の目的はおぼろげながら想像できますが,彼女もまた人間的な意味での「愛」を抱えた存在なんだろうということが示唆されています。
ズォーダーとサーベラーの間で生まれたと思われる赤子(たぶんミルなんでしょうが)の図がなんども流れますけれども,そこから読み取れることはサーベラーもまた人間的な意味での「愛」を(無自覚ながら)知る者であり,彼女なりの思惑でそれを大帝に認めさせたいという想いがある。そのためには加藤をそそのかし,「愛」するとはどういうことなのか大帝に見せ付ける必要があった...のではないかと推察します。
先に波動砲艦隊を率いてバルゼー艦隊と対峙した山南司令は次のような趣旨の言葉を述べました。「力に頼るものはより強い力によって倒される」。かつて旧作において大帝が地球と対峙した時に述べた言葉ですね。
力対力で争う限り,より強い力を持つガトランティスには勝てません。旧作だって最後はテレサの特攻でなんとかしただけです。地球が軍事力で勝ったわけじゃない。
そういう意味ではトランジット波動砲がどのような効果を持とうと,「力では大帝を屈服できない」という設定は残るのだと思います。本作で描こうとしているのはきっとそうしたバトルものとしてヤマトが何とかするようなお話ではない。
銀河に人類の種をまいたアケーリアス文明が,人類が暴走したときの安全弁として設けた「装置」がガトランティスという人造生命体。人類を滅ぼすためだけの存在です。SFではいくつもの作品で取り上げられた,コンピューターが人類を「害」とみなして駆逐しにかかる,そんな類型に属する展開です。
しかしガトランティスは人間の姿かたちをしている。性行為をすれば生殖もできる。かれらが人ではなく破壊装置として定義されているのは,そこに人類として共通に持つ価値観である「愛」-男女の愛,家族愛,人類愛...そういったものが「無い」から簡単にコピーが作れる「モノ」としてガトランティス人を描いているのでしょう。
一方で,「ガトランティスは十分に人間的」という論考が第5章で入りました。
...実を言うと土星沖会戦でそれを感じることはまったく無かったのであの描写は「?」だったんですが...人間の姿をしているというならば土星沖会戦以前にわかっていたことなので...。
それはともかく,ガトランティス人が暴走したコンピューターと違うのは,彼らも作られたものとはいえ「人間」であり,人間の持つ「愛」を自分たちを持つと認めざるを得ない状況に陥れば,翻意するなり自壊するなりの展開に持っていける...。そういう「落とし所」があるのだということは十分予測できます。
第6章でももろもろドンパチがあり,ヤマトもまた戦闘において活躍するシーンがあるのでしょうが,結局のところ最後は力ではなく「ガトランティス人もまた人間であり,人間的な意味での愛を理解できるものである」ということをズォーダーに認めさせる...。
その結果,ガトランティス人の行動原理である「すべての人類を滅ぼす」という根底の生存理由をひっくり返す...そんな展開で物語を収めるのだろうなと思ったり。

「人形」のサーベラーと桂木透子が存在する意味
それはきっとトランジット波動砲でも,宇宙戦艦銀河でもガミラス=地球連合艦隊による解決ではない,別の文脈での「解決」になるのでしょうね。恐らくは,桂木透子サーベラーやヤマトクルーの「愛」を通じて思い知らせるのでしょうが。
...まあなんだかんだで「愛の物語」にはなりますし,2202を通してみた場合文脈が整ったものにはなろうかと思います。それが「宇宙戦艦ヤマト」という物語としてやるべきだったのかどうかは,見終わってみないと分かりませんが。
そんなところで感想は御仕舞。まる。
宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち 第五章(セル版)
画像は『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』 第五章 煉獄編 セル版 より引用しました。